【2025年4月<法語>】仏法の鏡の前に立たないと自分が自分になれない

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仏法の鏡の前に立たないと

自分が自分になれない

二階堂行邦氏

『南無阿弥陀仏の葬儀』より

 

 「鏡」と聞くと、昔よく読んだギリシャ神話の怪物、メドューサを思い出します。もともとは美しい乙女でしたが、ある出来事によって、戦いの女神アテナの怒りをかい、恐ろしい姿に変えられてしまいます。それは、神の部分が何十匹もの蛇となり、常に彼女の頭部でシュルシュルと舌を出しながらうごめいている怪物の姿です。そして彼女が恐れられたのは、その姿だけではありません。彼女の目を見たものは、恐怖で体が硬直し、石になってしまうのです。

 そんな怪物メドューサを退治したのは、ペルセウスです。彼は青銅の盾を鏡の様に磨き上げ、彼女にその盾をかざしたのです。鏡の盾に移る自分の恐ろしい姿を見たメドューサは「ギャー!」という断末魔の叫びをあげ、彼女自身も石になってしまったというお話です。

 ギリシャ神話は登場人物(人物と言っても、神や怪物になるわけですが)が限定されていて、どんな物語にも、知っている人物が登場します。お経でも同じ菩薩さまやお弟子さんたちが登場しますが、これらは私にとって物語を楽しむひとつのポイントであったりします。

 

 さて、この法語「仏法の鏡の前に立たないと 自分が自分になれない」ですが、「仏法の鏡」とはどういうものでしょうか。鏡は光の反射によって、自分の姿を映すものです。仏法の鏡ですから、それは仏様の光によって、私の内面が隅々まで照らし出されるということです。ただ、それを覗き込んでしまったら、私もまたメドューサのように自分の恐ろしい姿に「ギャー!」と叫んでしまうことになるでしょう。だから、鏡に立つことすら怖気づいている自分がいます。

 

 温暖化を止めなくては、と思いながら車に乗る私。命をいただいている、といいながら食べ物を廃棄する私。難民の人達を受け入れなくては、と考えても自宅の余った部屋を提供できない私。施設の母親が寂しいだろう、と思いながら面会にいかない私。生き方には様々な選択肢ある、といいながら自分の子供にはそれを許さない私。隠しているつもりの恨みや妬みの心も仏法の鏡には、くっきりと映し出されるでしょう。

 

 とにかく私は自己中心で成り立っているはずです。そんな自分をありありと見つめるのは怖いのです。

 

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)が本当にすごいお方だと思った和讃を紹介したいと思います。最晩年に近い、88歳に書かれた「愚禿悲嘆述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)」の一首です。

 

悪性(あくしょう)さらにやめがたし

こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり

修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに

虚仮(こけ)の行とぞなづけたる

 

「わたしは悪い本性を断ち切ることが未だ出来ません。その心は蛇やさそりのように恐ろしいのです。良い行いをしているようでも、そこには必ず自分の見栄やおごりが含まれているので、それはにせもののおこないというしかないでしょう」と詠われています。

 赤裸々に吐露(とろ)された宗祖のこの告白は、仏法の鏡の前に生涯立ち続けた御姿を想像させます。阿弥陀様はそんな衆生をこそ救ってくださるのに、鏡の前で目を開けることが出来ない私は、まだまだ本当の自分に出遇えていないということになるでしょう。だからこそ仏法の鏡の前に立てと、阿弥陀様はすすめてくださるのです。

 

文:上本 賀代子氏

2022年発行『今日のことば』第66集より